濁草子

考えたことや良かったものをひたすら更新していく予定です。

ゾンビ映画が観れなくなった

ゾンビ映画好きに急遽訪れた違和感

 

いつからかゾンビ映画が好きだった。元々アクション映画のようなテンポの良いスカッとする映画が好きで、且つ「B級映画」が好きなので、ロメロといったような王道作品からゾンビ化したビーバーが人々を襲う映画(『ゾンビーバー』)まで、そこそこの作品数を娯楽として見ていた。

サメ映画も好きなのだが、「何かが人を襲う」というストーリーとしては単純な中で、どのように個性を持たせるかという部分に着眼して観るのが非常に好きなのである。ホラーとしてではなく完全にエンタメとしてゾンビ映画を観ていた。

 

ある時を境に、ゾンビ映画が観れなくなった。

 

一本の映画を観た時、自分の頭の中で急にいろんな知識が嫌に綺麗に結びついて、ずっとそのことについて考えながら、気がつけばゾンビ映画を観ることを控えるようになってしまった。ちょうど公開されていて楽しみにしていた『デッド・ドント・ダイ』を観る気も失せてしまった。

 

きっかけは、何気なくどこかで観た短編映画『SKIN』である。

※後に長編映画も作られて上映されたが、短編の

 

『SKIN』とロメロの類似エンディング

 

ーーー下記『SKIN』(短編)・『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』ネタバレ注意ーーー

 

『SKIN』のあらすじ。

主人公の父親は白人至上主義のネオナチ。父親とは仲が良く、いろいろなことを教えてもらっていた。ある日、父親は見かけた黒人グループに暴行を加える。後日父親はその黒人の仲間に拉致され、報復として体全体に「黒」を彫られてしまう。なんとか帰宅するも薬の影響なのかうまく喋れず、主人公である息子は報復しに来た黒人一味と間違えて父親を射殺する。

 

eiga.com

 

この結末はロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』に非常に似ている。間違えられて射殺されるのが人種かゾンビかという違いである。オマージュなのかはわからないが、非常に残酷で恐ろしい。実際、頭を殴られたような感覚に陥り、しばらくこの2つの作品のことを考えていた。

 

eiga.com

 

和牛の漫才 - ゾンビの定義とは?

 

そして、ふと和牛のとある漫才を思い出した。M-1グランプリ2018の和牛のFIRST ROUNDのゾンビのネタである。水田は川西に「もし俺がゾンビになったら俺のことを殺してくれるか?」という問いかけをする。川西は「完全にゾンビになったら殺す」と答えるが、タイミングについて二人で議論をするという内容だ。

動画はもう存在していないが、下記ブログで文字起こしがされている。参考まで。

 

himapucchi.com

 

漫才の中で水田は「ゾンビになる手前、見た目は人間でも言語を話せなくなったら殺してほしい」「逆に見た目が変色していても言語を話していたらまだ心があるから人間。殺さないで欲しい」と持ちかけるが、川西は「人間の見た目で殺すことはできない」と拒否し、漫才が展開していく。

考えたこともなかったが、ゾンビの定義とはなんなのか。腐っていて自我がなくて人間を食べるのがゾンビだと思っていたが、そのどれかが欠落した場合にどう判断するのか。実際、最近では自我が残っているゾンビが登場する映画もあり、より判断が難しくなっている。

 

哲学的ゾンビ - 人間とは

そしてさらに、学生時代にレポートを書くにあたって出会った「哲学的ゾンビ」の概念を思い出した。課題図書の一つである押井守の『ゾンビ日記』に大人しいゾンビが出てきて、人間とゾンビの境界線を知りたくなった。いろいろと調べた結果、デイヴィッド・チャーマーズの『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』に行き着いて「哲学的ゾンビ」という概念を知った。

チャーマーズの思考実験として登場したこの概念は私が好きなエンタメとしてのゾンビとは区別されており、「現象ゾンビ」とも呼ばれている。哲学的ゾンビは、生物学的に人間と全く違いはなく表情や会話も人間そのものだが、クオリア(感覚的・主観的な経験)を持っていない。例えば、人間は金木犀を見て「秋だなあ」「良い香り」「なんかエモい」とそれぞれ感じた感覚を言葉に置き換えて脳内で具体化している。しかし、哲学的ゾンビにはそのような感覚がない。哲学的ゾンビがいくら金木犀を見て恍惚そうな表情をしていても、それはプログラミングされたようなもので、そこには主観的感覚・経験は存在しないのである。(結局、その主観的感覚・経験が存在するかどうかは判断できないので、人間と哲学的ゾンビの区別は難しい。)

 

 

そのゾンビは本当にゾンビ?

これらの作品が頭の中で綺麗に結びついてしまい、ゾンビ映画に出てくるゾンビは本当にゾンビ?ゾンビはどこからゾンビなのか?そもそも人間の定義とは?と境界線がわからなくなってしまい、しばらくゾンビ映画を観るのをお休みした。

一回この問題をよく行く店に持ち込んだら議論が白熱して頭がパンクするかと思った。そこでは「顔が腐ってる以外他の人間と変わらないのであれば、肌の色が違うように一種の個性を持つ人間なのではないか」という意見も出てきた。

冒頭に書いた通り、実際にゾンビに自我がある作品も増えてきており、医学的・哲学的・法学的等、複数の観点で考えないと難しい問題である。

 

もっと肩の力を抜きなよ、と言われたこともある。ようやく今はエンタメの一つとして割り切るようになったが、でも以前ほどは観ていないという事実がある。